常設展示室

台本や自筆の原稿などが展示された「生誕100年記念 伊馬春部展」

 

「閉ざしつゝ ねむることあり はろばろの まらうどならば 鈴ふりたまへ」

はるばるお越しの客人(まろうど)は鈴を振って呼んでください―茶目っ気と温かな人柄を感じさせる歌。詠み人は生前、この歌と土鈴を自宅玄関に掲げ来客を迎えていた。伊馬春部(いまはるべ)、現在の八幡西区木屋瀬出身の劇作家である。

伊馬春部(本名・髙﨑英雄)は一九〇八(明治四十一)年、醤油醸造業を営む商家の長男として生まれた。伯父で俳人の阿部王樹(あべおうじゅ)らの影響を受け、幼くして作文や句作に熱中。旧制鞍手中学から國學院大學へ進み、折口信夫(釈迢空(しゃくちょうくう))に師事。短歌、国文学、民俗学などを学んだ。卒業後は井伏鱒二門下で、太宰治、檀一雄らとも親交を深めた。

三二(昭和七)年、劇団「ムーラン・ルージュ新宿座」文芸部に就職。伊馬鵜平(うへい)の名で作品を発表し、淡々とした生活描写と社会風刺に富む洒脱(しゃだつ)な作風で人気を博した。

ムーラン対談後、PCL(現・東宝)やJOAK(現・NHK)の嘱託として脚本を執筆。国内初のテレビドラマ「夕餉(ゆうげ)前」も手がけている。

終戦後、筆名を「春部」と改め、主にラジオで活躍。北条誠らと輪番で脚本を担当した「向う三軒両隣り」、室生犀星からも傑作と評された文芸作品「屏風(びょうぶ)の女」、各地の民謡に取材した作品群などで独自の世界を構築。さまざまな放送形態にも取り組み、放送の可能性を切り開いた。

晩年は「櫻桃の記」など劇作執筆の傍ら、校歌の作詞やエッセーを多数手がけ、西日本新聞にも「鹿おどし」を連載。七五(同五十)年、随筆集『土手の見物人』を上梓(じょうし)。得意のウィットで自身の事故や病気をも笑いに変え、読者を楽しませた。

紫綬褒章を受章したのをはじめ、芸術祭奨励賞、毎日芸術賞などを受賞。七六(同五一)年には、宮中歌会始で召人も務めた。

八四(同五十九)年、永眠。自ら準備していた戒名は「汝更院釈春英」汝。汝はYOU、更はMOREでユーモア。学生時代に折口から与えられたあだ名のひとつである。

当館では現在、「生誕一〇〇年記念 伊馬春部展―向う三軒両隣りの時代―」を開催している。放送草創期の台本、自筆原稿のほか、折口より贈られた短冊や太宰からの手紙などを展示。演劇、ラジオ、映画、テレビ・・・昭和の娯楽を担った劇作家の生涯を紹介している。

(元学芸員・宮地里果)

※2008.10.04「西日本新聞」北九州京築版に掲載