常設展示室

若山牧水が三苫夫妻に宛てた書簡

「雪のなかゝら、とにかく無事に帰って来ました、いまお歌を見てゐます、調子が低い、濫(らん)作だからです、慎んで下さい、十二月十六日暁雨 牧水 三苫御夫妻様」

若山牧水から北九州の歌人三苫守西(もりにし)・京子夫妻に送られた手紙である。年代ははっきりしない。三苫夫妻の短歌に対する指導の手紙で、牧水はむやみに作り過ぎてはならないと戒めている。

牧水は一九二四(大正十三)年、二五(同十四)年、二七(昭和二)年と三度北九州を訪れている。牧水を迎えたのは、三苫夫妻や毛利雨一樓(ういちろう)といった牧水主宰の歌詞「創作」の同人たちであった。「創作」支社を北九州に作り活動していた彼らの、牧水に対する歓迎ぶりは熱烈であったようだ。仕事を休み、四、五日間ほとんど寝ず食わずの者もいたと、牧水は紀行文「九州めぐりの追憶」に書き残している。

手紙の受取人三苫京子は、一六(大正五)年若松生まれ。若松実科女学校のころ短歌を作り始める。文芸誌に短歌や小説を精力的に発表、また自ら歌会を主宰したり、作家の講演会を企画したりと活動的であった。親の反対を押し切り、八幡製鐵所に勤めていた守西と結婚、すでに「創作」に加入していた夫に続いて自身も同人となった。

《湯気立てば湯気の行方を見つめゐて摑(つか)まむとする吾子(あこ)にしありけり》

まだ幼い娘のあどけないしぐさを詠んだ歌だが、この長女は二歳で亡くなってしまう。

《死ぬるなぞちっとも思はず母さんは酸素吸入かけてゐました》

長女を亡くした直後の歌には、口語で率直に詠まれたものもあり、母親のやりきれない哀(かな)しみが伝わってくる。

一方、守西は、自然主義的で、悲哀やユーモアの感じられる歌を作る。

《瓶の水吸ふ事はげし驚きて今朝も桜の水替へにけり》

《むやむやと少し動きてしんなりと足伸ばす蛸(たこ)のかなしき姿》

守西は京子のことを「彼女は私の妻であるが、同時に良き友であり、歌の道の競争者でもあるのである」と述べており、牧水門下のライバルとして、互いに競い合うように短歌を作っていた。

 

(元学芸員・佐藤響子)

※2007.09.29「西日本新聞」北九州京築版に掲載