学芸員だより

2014年03月28日 カテゴリー:

詩人・宗左近のこと

3月28日、戸畑図書館内に「宗左近記念室」がオープンしました。

それを記念(?)して、少しばかり宗左近のお話を。

宗左近(本名・古賀照一)は1919年、戸畑の牧山峠に生まれました。法政大学、昭和女子大学で教鞭を執りながら詩、小説、美術評論、翻訳など幅広く執筆活動を行い、50冊に及ぶ詩集、100冊を越える著書を刊行し、2006年にこの世を去りました。

幼少期を戸畑で過ごした宗は一時、家庭の事情で宮崎に移りますが、小倉中学(現・小倉高等学校)に進みます。当時の北九州は重工業都市として近代産業が隆盛を極めてゆく時期で、「効率第一主義」に進んでいました。宗は、そのような故郷・北九州に違和感を持ちます。中学卒業後は上京し、2年ののちに旧制第一高等学校へと進学、ランボーとデカルトを原語で読みたいと、フランス語のクラスに進みました。ここで多くの友と出会い、詩や小説を書き始め、

校友会の雑誌『護国会雑誌』や『向陵時報』に、小説『高尾懺悔』や詩『極みの海』などを発表しました。これらが宗の最初期の作品です。
それから東京帝国大学に進学しますが、戦火の激しさは増す一方で、宗も徴兵検査を受けます。「甲種合格」となるものの、入隊直後に心臓脚気の診断を受け、即日帰郷。再検査では食を絶ち、「丙種合格」となり一時的に徴兵を免れました。しかし45年3月、召集令状が宗のもとに届き、横須賀海兵団に入隊します。そこで宗は心神喪失と認定され、再び即日帰郷となりました。宗の徹底した徴兵忌避には思想的なものより、「生きたい」という生の強い迸ほとばしりを感じます。

45年5月25日。東京は大空襲を受けました。宗は疎開先の福島から一時上京していた母を送るため、上野に向かっていたところで空襲に遭いました。2人は手をつなぎ、火を避けながら、逃げ惑います。そしてなんとか四谷の仮住まいに戻るものの、そこも炎に包まれてしまいました。宗と母は、燃えさかる「炎の一本道」を抜けようとしますが母は転び、その手が離れてしまいます。宗は母を置き去りにし、そして生き延びました。その壮絶な体験は、十数年の時を経て、言葉として溢れ出します。パリ留学中に序詞を得て、帰国後も書き続けました。そしてあの日から22年、第3詩集『炎える母』が上梓されました。本作は宗の代表作となり、第6回藤村記念歴程賞を受賞。宗は詩人として認められることになります。

また52年、岡本太郎が発表した『縄文土器論』に衝撃を受け、縄文土器に強く惹かれていきます。縄文土器が、考古学的遺物から芸術へと変わったのです。この縄文への傾倒はのち、ライフワークとなった詩作《縄文シリーズ》へと展開し、宗は「縄文詩人」とも呼ばれました。縄文土器に表れている縄文人の「祈り」に共鳴することで、戦争で死んだ友人、そして広く「死者」に想いを寄せ、交感した彼の詩は、鎮魂の「祈り」ともいえます。

宗はふるさと・北九州に愛憎入り混じる複雑な思いを持っていましたが、晩年、故郷への想いを強くし、99年、北九州の地名を織り込んだ中句(一行詩)集『響灘』を刊行します。地名一つひとつが自分を育んだ「宇宙詩」であると語り、北九州が産土(うぶすな)の地であったことを再認識します。近代の象徴であった北九州に向き合い、その向こう側にある原初のふるさとを見ていたのでしょう。

宗左近の言葉からは、言葉にできない心の「ざわめき」を感じます。

宗左近記念室のある戸畑図書館の郷土資料室には宗左近の著書が配架されています。
ぜひ、手に取って読んでみてください。
皆さんはどのように感じられるでしょうか。

※本稿はCulCul 2014年3月号掲載の記事を加筆修正したものです。

作家について

ページトップへ