学芸員だより

2014年03月22日 カテゴリー:

書幅「天馬行空」

百年以上も前、一八九九(明治三十二)年六月十九日。三日前に東京・新橋をたった鴎外森林太郎が、小倉の地に到着する。前年に新設されたばかりの陸軍第十二師団へ軍医部長として赴任したのだ。

既に小説「舞姫」などを発表し、また学者として軍人として順調な歩みをたどってきた鴎外に、「地方」への赴任は失意をもたらしたという。だが、二年十カ月にわたる滞在期間中の活動は、軍務のほか、むしろ多彩だ。

地域の人々との交友の中で異彩を放つのが、発明家の矢頭良一である。矢頭は、七八(明治十一)年六月三十日、築上郡(現・豊前市)生まれ。少壮のころより、鳥が空を飛ぶ姿に関心を抱き、終生、飛行の研究に没頭した。今日では、日本で初めての計算機「自働算盤」の発明者として知られる。

矢頭が鴎外を訪ねたのは二十三歳のとき。「当国築上郡岩屋村の人矢頭良一といふもの来訪す。自ら製する所の自動算盤を出して眎し…」(鴎外「小倉日記」)。この後も訪れては、自らの研究を熱心に語る矢頭へ、鴎外は東京帝大・理科大学(現・東大理学部)周旋の労をとっている。

上京後も精力的に研究を行った矢頭はしかし、病により早世する。享年、三十。追弔会の発起人も務めた鴎外は、落胆する父親へ「天馬行空の四字を書」して贈った。

「綺麗に、雅で」「骨のような書体」(鴎外長女・森茉莉)の下には、鴎外らしい几帳面(きちょうめん)さで下書きの跡が残る。

落款(らっかん)「源高湛(たかやす)」は鴎外の姓と諱(いみな)。共に名前の一種である。明治初年に統一されるまでは、このように複数の名前を持つ人が多かったのだ。

印は小倉時代に入手したものだが、押印例はまれ。同時期に知り合った矢頭をしのんでの計らいだろう。空をかける飛行機のイメージに、短い生涯を駆け抜けた矢頭の姿が重なる。

矢頭については、系族にあたる梅田利行氏の著書「天馬行空」が詳しい。

今年も六月十九日には、小倉北区の文学碑前で、鴎外の来倉を記念する、しのぶ会(北九州森鴎外記念会主催)が行われた。

文学館では来月五日より「森鴎外展 をりをりの微笑」を開催。掲出の書幅も展示する。

※2007.09.15「西日本新聞」北九州京築版に「文学の情景」第2回「森鴎外 上」として掲載

書幅「天馬行空」

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