学芸員だより

2016年07月08日 カテゴリー:

『無法松の一生』ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞の盾、展示しています。

北九州を色濃く伝える作品の一つに、明治の人力車夫、富島松五郎の人情と愛を描いた岩下俊作「富島松五郎伝」(のち「無法松の一生」に改題)があります。1943年と1958年に稲垣浩監督によって映画化され、三船敏郎主演の58年版において、ヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞しました。今回、原作者である岩下に贈られた盾を展示いたしました。

小説「富島松五郎伝」は、作家の吉川英治が高く評価し、第10回、11回の直木賞候補になりました。惜しくも受賞はなりませんでしたが。しかし、1942年には文学座で舞台化もされ、多くの読者の胸を打ちました。その一人が映画監督で脚本家でもあった伊丹万作です。伊丹は企画が決まらないままに「富島松五郎伝」を脚本化しました。しかし、病を得たことで、自ら監督を務めることができなくなりました。そして、友人であった稲垣浩監督に、その脚本を託します。

伊丹の想いを受けた稲垣の手によって1943年、阪東妻三郎・園井恵子主演で映画化されるのですが、時は太平洋戦争の只中でした。日本軍の検閲により、映画は二か所カットされます。松五郎が博打に興じる場面は、風俗を乱すという理由で、また、物語の終盤、松五郎が思いを寄せる良子夫人の手をとる場面は、「人力車夫が、軍人の未亡人に手を出すとはけしからん」というような理由によりカットされたのです。

しかし戦争中の娯楽のない時代、「無法松の一生」は国民の大きな慰めとなり、盛況を持って迎えられました。

そして、戦後。

日本はGHQの占領下におかれ、再び「無法松の一生」は検閲を受けることになります。作中に良子夫人の息子、敏雄が唱歌「青葉の笛」を歌う場面が、軍国主義的であるとの理由でカットされます。

戦中、戦後の二度にわたり、「無法松の一生」はカットされたのです。(GHQによってカットされた箇所のフィルムはのち、カメラマンの遺品から発見されました。)

伊丹の脚本を十全な形で、映画にできなかった後悔もあったでしょう。自分の監督作品として完全なものを残したいという気持ちもあったのでしょう。稲垣は三船敏郎・高峰秀子を主演に据え、もう一度、「無法松の一生」を撮り直しました。そうしてヴェネツィア映画祭に出品され、金獅子賞(グランプリ)を獲得するのです。受賞に際して、稲垣監督は日本へ「トリマシタ ナキマシタ」と電報を送りました。

ヴェネツィア映画祭の授賞式で、金獅子賞受賞者が掲げるのは、金色の獅子のモニュメントですが、関係者には金獅子をかたどった盾が贈られます。原作者である岩下俊作に贈られた盾を今回展示しています。文学館2階常設展示室に展示していますので、この機会にぜひご覧ください。

 

作家について

ページトップへ