学芸員だより

2014年05月24日 カテゴリー:

自筆原稿「夏の日の響灘のうた」

どこからか忍び寄つては離れてゆくひびきがあった。きき覚えのあるなつかしいひびき  であった。子供の頃、母が唄ってくれた子守唄のやうでもあつたし、どこかの旅先できいた寂しい時雨の音のやうでもあった。 (後略)

志摩海夫(うみお)(本名・市川二獅雄(にしお))は「夏の日の響灘のうた」で潮騒を表現した。掲出の自筆原稿は、一九四七(昭和二十二)年、NHKラジオの朗読詩として書いたもの。改稿され、詩集「日本群鴉(ぐんあ)」に収録されている。

志摩海夫は〇八(明治四十一)年、杷木町(現・朝倉市)生まれ。二一(大正十)年、父が八幡製鐵所に勤め始め、八幡に移ってきた。小倉工業学校(現・小倉工高)に進学、後に「富島松五郎傳」を書く岩下俊作と同級生だった。卒業後は八幡製鐵所に入所。同僚となった岩下の影響もあり、この頃、文芸活動を始めた。

三六(昭和十一)年、病気のため約三年休職して病気療養。そのつれづれに詩を書いたのが、本格的な詩作のきっかけとなった。三九(同十四)年、越智弾政(おちただまさ)と岡田武雄が八幡で創刊した詩誌「八幡船(ばはんせん)」に参加。翌年には「第二期九州文学」同人となる。同年、第一詩集「失楽の門」を出版した。

志摩自身は徴兵されなかったが、戦時中は愛国的な詩も作った。「カオと叫んで 大地を蹴った 羽交(はが)いの下に ぐいと傾くふるさとの一角。生死の翳(かげ)をふりすてて  ひたぶるに双手(もろて)をはばたき…(後略)」「日本群鴉のうた」の鴉(からす)は出征兵士の象徴。戦争に駆り出された兄弟や友人を鼓舞する思いがあっただろう。

四五(同二十)年十一月、同僚の岩下、辻旗治(はたじ)(星野順一)と詩誌「浪漫(ろうまん)」を創刊。「炎と煙の絶えた製鉄所の空を眺め、無為と虚脱感に堪えられずに起ち上ったわれわれの抵抗であった」と述懐する。

製鐵所を定年退職した後も詩作を続け、七四(同四十九)年には詩誌「未来樹(みらいじゅ)」を創刊主宰。北九州詩人協会会長を務め、北九州詩壇を牽引(けんいん)した。九三(平成五)年逝去。

志摩は、郷土の自然や製鐵所、日々の生活を題材に詩を作り続けた。次のように語る。「詩はもはや自分の肉心(ママ)の一部であり信仰に肖(に)たものとなつてゐる。それは過去の生活の失墜時代に得た唯一の救ひだつたからでもあらうか」

(元学芸員・佐藤響子)

※2008.03.15「西日本新聞」北九州京築版に掲載

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