学芸員だより

2014年03月19日

神崎武雄「寛容」

「ホテルの広間で何気なしに取上げた新聞に、小さい私の名前をみつけた。私は『直木賞』を受けることにきまつてゐた。」

神崎武雄が、「寛容」その他の作品で第十六回直木賞を受賞したのは一九四三(昭和十八)年。それらを収めた著書にはこのような喜びが語られた。世に出した小説は、いずれも戦時下における人々の暮らしを描いている。

〇六(明治三九)年、門司市内本町(現・門司区東本町)に生まれた神崎は、幼くして東京へ転居。帰郷して後は豊津中学(現・育徳館高)に通った。早稲田第一高等学院へ進学するも中退、満州に渡っている。この体験に取材した作品も多い。帰国して文学に専念するまでは松竹や都新聞に勤めた。

劇評や花柳小説を手がけた瀬戸英一に師事。劇作家・長谷川伸の主宰した新鷹会(しんようかい)にも参加した。現在も続く同会は山手樹一郎や、村上元三などを輩出。新人作家育成の勉強会だった。

「寛容」は、英領下にあるインド人が、自らの日本観を新たにする経緯を書く。インド独立を夢見るドミイは、日本で商い、家庭を構え、根付きながらも「笑ふ人種」の日本人を軽んじている。「不良英人」として国外退去処分になっても、さしたるショックはなかった。

しかし、日中戦争の勃発を機にドミイは、日本人がいざとなればひどく勇猛であること、自分の侮ってきた日本人の甘さが、実は日本の「寛容」であったことを知る。

表紙絵の人物はおそらくドミイなのだろう。当時イメージされた「南」の人の典型的な表象だ。ドミイは初め着物を嫌っていた。しかし「日本が恋しくて堪らな」くなった彼は、身の丈に合わない着物をまとい、日の丸を手にする。

このイラストを含め、本の装丁は作家自身が行った。海軍報道班員として従軍するに際し「遺してゆく本に」「自分で着物を着せさせ」たのだと言う。序文の日付は「三度目の十二月八日に近き日の夜」。

「生還は期してゐない」と言い置いた作家は、翌年、南海にて戦死した。

大東亜共栄圏に夢想された「寛容」とは何だったのか。問いを引き受けるのは私たちなのではないだろうか。

※2008.03.08「西日本新聞」北九州・京築版に掲載

神崎武雄「寛容」

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