学芸員だより

2014年03月19日

小倉龍男

今は、知る人も多くないのかもしれない。小倉(おぐら)龍男は、戦時下の北九州が突如迎えた作家だった。

デビュー作は、雑誌「改造」(一九三九年五月)の懸賞小説に二等入選した「新兵群像」。一等に該当がなかったので、実質のトップ当選だった。

同じく応募して選外佳作となった劉寒吉は、その驚きを「どうも小倉の人らしいが、何者だろうか」「記憶になく、まったく未知の人だった」と語っている。

小倉龍男は本名・杉村喜生(のぶお)。一五(大正四)年十一月十日、現在の北九州市小倉に生まれる。幼いころに父を亡くし、一家困窮のため小学校卒業後すぐに、就職した。大阪へ渡り、さまざまな職業を目指すが飽きたらず、夜学で文芸を学ぶ。その後入った呉海兵団から、前の入選を果たした。

除隊後は、帰郷し若松の石炭互助会へ。紹介者は海兵団の先輩であり、同郷の歌人でもあった浦橋七郎だった。浦橋が保管した「新兵群像」の切り抜きファイルには、小さな写真が貼り付けてある。受賞の記念だろうか、東京を闊歩(かっぽ)する小柄な小倉の姿が見える。「海軍の火野葦平になる」ことが口癖だったそうだ。

このころ、初の著書「海流の声」を刊行。出版記念会へ、苦労を重ねた母親を連れて出席した孝行も伝わる。

掲出は、小倉の書いた色紙。「闇ふかく夜光蟲(やこうちゅう)光る島ほとり/出撃のととのへおへしふねありき/兵たちのいのちさやけくたくましきかな」。

ほぼ同じ詩が、遺作となった小説「縹渺(ひょうびょう)」に登場する。作戦地を目指し南へ向かう潜水艦での日々。敵の軍港へ出撃する前夜、「私」は白紙の目立つ手帳にこの詩を記す。

「人間の感情など少しも必要ではな」い任務の中、常に海や雲、星の美しさに打たれる「私」の姿が印象的だ。

四一(昭和十六)年に応召した小倉は、帰郷することなく、最後の出撃へ向かう。

「縹渺」の刊行は四四(同十九)年二月。浦橋のファイルには翌三月十五日に「印度洋方面戦死」とのメモがある。

同年七月、「九州文学」では追悼欄を設け、ナイーブな詩人だった作家が、二冊の著書とわずかな作品しか残せなかったことを悼んでいる。

※2008.02.23「西日本新聞」北九州・京築版に掲載

小倉龍男

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