学芸員だより

2014年03月20日 カテゴリー:

「ヘルス・メモ」

晩年、高血圧症を患った火野葦平は、一九五九(昭和三十四)年十二月より日記風の健康手帳をつけ始める。

死後、十二年を経て明らかにされた、いわゆる「ヘルス・メモ」である。

そこには最期のものを含め、三つの遺言が残されている。常に、死が意識されていたのだろう。

気遣うのは家族のこと、仕事のこと。「遺族たちだが、仲よく、私の死後について再建築を」「一家きやうだい力を合はせて困難に耐へること」「まだ書きたい作品は多いが、慾(よく)ばらない」など。

若松区に今も残る火野の旧居「河伯洞(かはくどう)」書斎で、作家の死が確認されたのは、六〇年一月二十四日。当時の死因は「心筋梗塞(しんきんこうそく)」と報じられた。

前夜、訪客をもてなす姿には異常がなく、「事態は余りに唐突過ぎた」と二男・英気氏は述べた。

「兵隊作家」と呼ばれ、煩悶(はんもん)した火野。自らにとっての戦争を見つめ直した小説「革命前後」が、メモを書き始めた前年十二月に完結している。大晦日(みそか)には「充実した仕事」と安堵(あんど)がもれた。

しかし―「一日一日をただごまかして生きてゐるだけだ」、「倦(あ)いた。疲れた」。

二度も記される「いままで、みんな幸福すぎた」とは、なんと寂しい言葉だろう。

通読すると、火野がいつも孤独や不安と闘っていたことに気付かされる。病による胆力の衰え、と片付けることはできない。

しばしば語られる、豪放などんちゃん騒ぎも、孤独を本当に知るがゆえの営み。人と人の間をつなぎとめようとする痛ましい努力に思えてくる。メモの細かな文字には、その桎梏(しっこく)から逃れようとして、逃れ得ない苦闘の跡が浮かぶ。

「死にます。/芥川龍之介とはちがふかも/知れないが、或(あ)る漠然とした/不安のために。/…」

最後に記されたこの声は、火野を頼みとした母親と妻への配慮から秘せられた。奇(く)しくも、二人は火野の命日、それぞれ三回忌、十三回忌当日にみまかる。

その後、遺族からあらためて自殺の事実が明かされ、メモの内容が公表された。

二十日には、若松区の高塔山文学碑前で、葦平忌が開催される。

※2008.01.19「西日本新聞」北九州・京築版に掲載

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