学芸員だより

2014年03月20日 カテゴリー:

詩集「山上軍艦」

二度の世界大戦は近代戦の歴史であったと言われる。飛行機や戦車、毒ガスといった近代的兵器の使用。かつてない数の戦死者、犠牲者。戦場は戦線から銃後へと拡大し、国民全員が国家の「兵士」となる。

しかし、そういった総論からは見えにくい個々の物語がある。歩兵の一人一人にも意味がある。一人の兵隊を見つめる―火野葦平とは、そういう作家だったのではないか。

火野の出征は一九三七(昭和十二)年。日中戦争の勃発(ぼっぱつ)を受けてのことだった。出立間際、友人たちから彼自身の詩集「山上軍艦」が贈られる。限定二百部のうち、数冊が出発へ間にあったという。

本作りを担当したのは、福岡の詩人・原田種夫。かねて、同人誌「とらんしつと」に発表した詩(一部再掲)を「日本一」の詩集にまとめる計画だったが、準備にかかって間もなく、火野に赤紙が届く。詩集は友人たちの「千人針」となり、作業が急がれた。

装丁、青柳喜兵衛(きひょうえ)、挿画に星野順一、安広戌六(じつろく)。跋文(ばつぶん)には劉寒吉、岩下俊作はじめ、友人十人が名を連ねる。

これだけの本が戦時、プロの版元からではなく、私家版として出版された驚きは今も色褪(あ)せない。「とらんしつと」は北九州を代表する同人誌だが、「山上軍艦」はそこに育った同人文化の精と言っていい。

「限りなく深い友情によつて出帆」した詩集の最後に、火野は覚悟の「遺言状」を記している。

戦地から極楽へ往(い)ったら、墓標代わりの詩集を小脇にかかえ、「友人共」に化けて出る。新作の詩を読みきかせてやるから「みんな、さう思へ」。悲壮なユーモアだ。背嚢(はいのう)に詰められた「日本一」の友情詩集は、戦場でもそれは大事に扱われたという。友に代わる守り札だったのだろう。

一介の伍長・玉井勝則(火野の本名)は応召から半年も経たずに、作家・火野葦平として芥川賞を受賞した。文芸評論家の小林秀雄が駆けつけたセンセーショナルな陣中授与式から、報道部への転属。間もなく発表した従軍記「麦と兵隊」は、一人一人の兵隊の日常をリアルにつづり、熱狂的な支持を集める。いわゆる「時代の寵児(ちょうじ)」だった。

 

※2008.01.05「西日本新聞」北九州・京築版に掲載

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