学芸員だより

2014年03月20日 カテゴリー:

上司(かみつかさ)海雲(かいうん)宛て書簡「雪はげし」

一九二九(昭和四)年は橋本多佳子にとって、櫓山荘を引き上げた別れの年であると同時に、終生の師、山口誓子(せいし)との出会いの年でもあった。

誓子の生年は〇一(明治三十四)年。多佳子は二歳年長である。しかし、年下とはいえ、誓子の俳名は学生時代より高く、伝統俳句を離脱してからは、より革新的な現代俳句を牽引し続けた巨人であった。

多佳子は誓子に深く師事した。世に送り出した五つの句集の内、四冊までが誓子の序文を擁(よう)する。

第一句集「海燕(うみつばめ)」のそれによれば、女性作家には「女の道」と「男の道」がある。多佳子が選んだのは「仮借(かしゃく)なく、容赦のない、冷厳な」男の道である、と。若くして夫を亡くし、自らの両足で峻険(しゅんけん)な道を歩みつつあった作家へのエールがつづられている。

実際、戦後の農地改革で財産の多くを失いながら四人の娘を育て、一方、句作ではほとんど合宿のような勉強会を続けるなど、多佳子は自らを鍛えた。

対して、遺句集となった「命終(みょうじゅう)」の序文には、多佳子の句に杉田久女より継承された「女ごころ」があると記される。

「男の道」を選んだ多佳子の最期に、誓子は「女ごころ」を見た。そして、それは「いのちのさびしさ」をたたえているという。

男と言い、女と言い―。しかし、誓子が読むのは、精進の厳しさと作品の格調を併せ持つ俳人・多佳子の円熟だろう。

折から体調のすぐれなかった多佳子は、六三(昭和三十八)年二月、入院、手術を受けた。遺作となる句が病床からつづられた書簡に見える。

宛先は東大寺別当(べっとう)を務めた上司海雲。随筆をよくし、文士とも交わった名僧である。後半生、奈良に居をおいた多佳子も親しんだ。

薄い和紙の便箋に雪景色のような青色が二筋。水茎の跡は、

雪はげし書遺(かきのこ)すこと何ぞ多き

同じく病床に遺されたという句に「雪の日の浴身一指一趾(いっしいっし)愛し」。両句は「命終」の最後に収録される。

「いのちのさびしさ」が浮かぶ。

 

※2007.11.10「西日本新聞」北九州・京築版に掲載

上司海雲あて書簡

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