学芸員だより

2014年03月20日 カテゴリー:

句帳「つくし帖」

「通勤の電車の窓に、櫓山荘(ろざんそう)を見るごとに、そのひとの面影はなおもあざやかにいきづく。」(安田満「多佳子幻影」)

過日逝去した詩人の安田満は、学生時代、夏休みを過ごすため郷里に戻り、「明るい色のパラソルをさした背の高い、美しい中年の女」―俳人・橋本多佳子に出会う。

今、橋本家別荘・櫓山荘は現存しないが、跡地には多佳子の句碑が建つ。

戸畑と小倉の境にある櫓山(やぐらやま)に、実業家・橋本豊次郎が、家族の暮らす邸宅を建築したのは一九二〇(大正九)年。瀟洒(しょうしゃ)な洋風建築のたたずまいが写真に残っている。

橋本多佳子は、一八九九(明治三十二)年一月十五日、東京に生まれる。祖父は箏曲(そうきょく)の家元。病気がちの少女時代を送るが、琴の練習は欠かさなかったという。

十八歳で、土木建築業を営む大阪橋本組の二男、豊次郎と結婚。二年後、豊次郎の北九州出張所赴任に伴い、小倉へ移住した。

「ロマンチスト」と評される豊次郎は、熱心な文化支援者だった。櫓山荘にはしばしば、全国的にも著名な文化人たちが訪れている。

俳人・高浜虚子を迎えた句会もそうした出来事の一つだった。しかし、この出会いがある俳句作家を誕生させる。

「落椿投げて暖炉の火の上に」。花瓶から落ちた椿が暖炉に投じられる。虚子が詠んだ即興の句に感銘を受けた多佳子は、同席した杉田久女より俳句を習いはじめる。

熱心な指導もあり、次第に腕を上げる多佳子。作品は、当時の俳句作家の檜(ひのき)舞台、「ホトトギス」に入選するようになる。が、そのころ、豊次郎の父親が死去し、一家は大阪へ。

別れを惜しむ句友たちは、はなむけの句帳を贈った。

うぐいす色の織物で装丁された表紙には「つくし帖」のタイトル。久女をはじめ、竹下しづの女、岩田紫雲郎(しうんろう)ら、筑紫(福岡)で活躍した俳人たちの優雅な手が並ぶ。跋文(ばつぶん)を記した久保より江いわく、願わくば「つくしの友どち」を思い出させたまえ。

言葉通り、橋本家はその後もしばしば、櫓山荘を別荘として訪れ、福岡の友人たちと交流した。安田が出会ったのは、そのようなある夏の多佳子だったのだろう。

※2007.11.03「西日本新聞」北九州・京築版に掲載

句帳「つくし帖」句帳「つくし帖」(より江)

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